西安大清真寺
現在西安市には約5万人の回族イスラム教徒がおり、この民族の人口は西安における40の少数民族のトップを占めます。したがって、西安にはイスラム教のぽ寺院がたくさんあります。 清真大寺は、鼓楼のすぐそばの市内いの中心地近くにあり、西安に住むイスラム教徒の宗教活動の中心です。寺中に保存されている石碑の記載によれば、この寺は唐の玄宗の天宝元年(742年)の建立であるが、明代の1384年に大修理が行われています。寺院は楼・台・亭・堂の4つの部分に分かれ、敷地は一万二千平方m、建築面積は約四千平方m、ほぼ完全な古代建築群で構成されています。前院には高さ9mの瑠璃屋根、異角飛檐の木牌坊があります。第二院には石碑坊が一ヶ所あり、石碑には明、清代にこの寺を修理したことが記載されています。第三院の中央に省心楼という建物があります。これは礼拝のとき、回教の僧侶が白い帽子を振って、人々を召集する場所です。第四院は礼拝大殿とも呼ばれており、信者は毎日五回、ここで西に向かって礼拝します。礼拝の前にはシャワーを浴びる習慣があります。大殿の面積は1300平方mで、一回に千人以上の礼拝式ができます。礼拝殿の周囲の壁はイスラム教の伝統的な装飾芸術を採用し、唐草模様の間にアラビア文字がたくさん刻んであります。この寺は全て中国のイスラム教の伝統的な様式によって作られたもので、その特徴で楼・台・亭・堂の四種類を形成しています。また、寺の建物は全て対になっています。その形式は広々として、堂内の彩画は精密で古典的な建築の特徴を残しています。人々の生活習慣、風俗などが民族によって異なることは言うまでもありませんが、特にイスラム教の寺院では男女が同席せず、タバコも禁止されています。彼らは豚肉も酒も口にせず、彼らが食べる肉は主に羊肉と牛肉です。結婚式は午後、新婦を迎え、翌日の朝に行います。聖典コーランを読み、メッカに生涯を誓います。女性はほかの民族とは結婚しませんが、男性は異民族と結婚できるという習慣もありました。葬式のときも読経します。棺は使わず、28mほどの木綿の織物で遺体を包んで埋葬します。服装は漢族とかわりませんが、年配で回族意識の高い男性は白いフチのない帽子をかぶっています。
鼓楼
鐘楼と向かい合って、西北に500メートルのところにももう一つの立派な古い建物鼓楼がある。鼓楼は鐘楼より4年早い西暦1380年に建てられた。昔、鼓楼には大きな太鼓があり、夕方になると太鼓を叩いて時刻を知らせるので、鐘楼の「晨鐘」と同じように、「暮鼓」という言葉あり、鼓楼と呼ばれたのである。
鼓楼は土à蚊娣eが1924平方メートルで、高さは34メートルである。土台全体が青いレンガで築き上げられている。楼閣は長方形で、表から見れば三階建てで、内部は実は重縁式の二階建てである。表の軒に「闘 」が飾ってあり、周りに回廊があり、内外とも金張りと色彩絵で飾り、非常に美しい。鼓楼は陝西省重要文化財に指定され、二回にわたって大規模な修繕を行い、昔のように立派な面影を戻したのである。
鐘楼
鐘楼は西安市内の中心にあります。ここを起点として東西南北に四つの大通りが伸び、それぞれ四つの城門に通じています。この四つの大通りが市内の交通網の基軸となっています。鐘楼は正方形の木造建築で、高さ36m、敷地1377平方m、高さ8mの煉瓦造りの土台の上に立っています。昔、時を告げるため、明の洪武十七年(1384年)に造られました。もとは広済街にありましたが1582年に今の所に移りました。塔の上にかつて、大きな鐘が吊るされていました。鐘は毎朝70回撞かれ、鐘を撞き終わってから東西南北にある四つの城門がそれぞれ開けられたと言われます。 今、鐘楼の鐘の音は録音されており、毎朝市民に時刻を告げています。鐘楼は外から見れば華麗な三階建てですが、実は軒が三層、建築は二層です。楼の四方にアーチ型の通路があり、楼の中に階段もあります。天井には綺麗な花の模様が描かれています。四方の門の人物像にはそれぞれ面白い来歴があります。この壮観な建物の造営のには釘が一本も使われていません。鐘楼は清代の乾隆五年(1740年)に修理されました。また、1953年7月から1954年6月にかけて全面的な大修理が行われ、ペンキも塗り直され、現在の姿は全く昔日と同じです。楼上からは市内の街並を一望できます。
西安碑林博物館
西安碑林博物館は西安城南門の東にあります。碑林とは文字や図像を刻んだ多数の石碑の集合を意味します。西安碑林は昔の西安の孔子廟を基礎として1087年に建てられました。この博物館は石碑展示室、石刻展示室、臨時展示室の3つに分かれています。建築面積は約4000平方m、展示品は約3000点あります。博物館は南北に細長く、門をくぐると木牌坊が見えます。右に折れて正面をみると東西両側に展示室が続いています。その間の遊歩道の両側に石造りの動物模様の門柱や八角円堂の碑閣が立ち並んでいます。もっと奥に進むと碑林の展示室に着きます。まず目に入るのは碑亭の中に立っている石台孝経です。この石碑は高さ5.7m、唐の玄宗皇帝の天宝四年(745年)の自筆で、内容は孝経に関する解説で、碑額の題字は皇太子李亨(後の粛宗皇帝)の書です。碑文の中に、「身体髪膚これを父母に受く」という明言もあります。七つの石碑展示室には大型の石碑と墓誌銘が千基ほど展示されています。展示の石碑は漢の時代から清の時代までの各時代にわたっています。石碑には歴史実録、仏教、古代の名著などが刻まれていて、石碑は当時では文化を伝える重要な手段でした。第一展示室には高さ2mの開成石経の石碑が114基あり、碑の両面に65万252の文字が刻まれています。開成石経は唐の文宗皇帝李昴が国子監(文部大臣)鄭罩の建議により、文宗の大和四年(830年)から開成二年(837年)までに艾居梅と陳王界らによって楷書で刻まれたものです。これらの碑の完成には約七年の月日を費やしたと伝えられています。文宗の開成年代に完成したのは開成石経と名付けられました。当時の統治者は、この石経を長安城務本坊の中に置き、大学生と文士たちに勉強させました。石経とは、十三種の儒教経典の意味で、即ち、周易、尚書、儀礼、詩経、周礼、礼記、春秋左氏伝、春秋公羊伝、春秋殻梁伝、論語、孝経、爾雅、孟子のことです。刻文の内容は中国の古い封建制度の道徳の倫理で、これにしたがって官僚を養成するのが当時の支配者の目的でした。また、地理資料、民間詩歌、貴族の冠婚葬祭の制度、名人の問答談話の収録、歴史文献など、数多くの典籍の精華が網羅されています。第二室には唐代の有名な石碑を展示しています。唐多宝感應碑は唐代の大書道家願真卿四十四歳の自筆です。碑文の内容は唐代の名僧楚金禅師により多宝塔建立の経過文で、この中に唐の玄宗皇帝が多宝塔建立にため、当時のお金で五十万銭送ったことが記載されています。顔家廟碑は、彼の七十二才の時に自家・顔氏の家廟のために書いたもので、内容は顔家の家史の総括です。顔真卿の作品は古今を通じて、顔法字として尊重されています。唐玄秘塔碑は唐代の有名な書道家柳公権が六十歳の時に大達法師のために揮毫した墓碑です。内容は、大達法師が唐の徳宗、順宗、憲宗皇帝から受けた厚恩について記載されています。唐同州聖教序碑は初唐の大書道家楮遂良の自筆で、内容は玄奘三蔵法師の苦労を称賛したものです。これは晩年の彼の傑作でもあります。皇甫誕碑は、歐陽通が書いたもので、道因法師が大慈恩寺で玄奘三蔵奉仕の経典漢訳の仕事を助けたことが記されています。有名な三蔵聖教序碑もこの展示室にあります。この碑文は唐の太宗皇帝の序文で、玄奘三蔵法師がインドから持ち返った膨大な仏教経典を漢語に翻訳し、皇帝に献上したという玄奘の功績を賞賛したものです。碑文の文字は主に書聖と称賛される王義之も原拓を懐仁法師が集めたものです。また、太宗皇帝の勅命によって、民間に散在する王義之の原拓を収集し、その原拓から文章に必要な文字を一字一字選んだものです。書聖の原拓の収集には、唐の太宗の貞観二十二年(648年)から唐の高宗の咸亨三年(672年)まで、実に24年間が費やされたと言われ、【一字千金】に値するという言葉が生まれました。碑林には古代中国と外国の友好往来の史実を記載している石碑もあります。この中で、大秦景教流行中国碑は外国にも名高い石碑です。この碑を刻んだのは唐の建中二年(781年)で、もとは長安大秦寺にありました。大秦とはローマ帝国を指す中国古代の呼称で、景教とはキリスト教の一会派です。この碑文に記載された景教の教義、教規などによって、古代中国におけるキリスト教の伝播状況や国際交流、友好往来の関係が明らかになっています。特に、碑の上にはシリア文字の職名が刻まれており、古代中国と古代のシリア、入らん、ローマ、アラビア半島諸国との友好往来を研究する資料としても価値が高く、この友好往来の史実を記載した資料は古今東西にこれしか存在しません。唐広智三蔵碑の内容はインド僧不空三蔵が布教師として長安を訪れ、大興善寺で真言密教を伝授し、サンスクリット経典77部、127巻を唐語に訳経したことです。中国の宗恵果は不空三蔵に就いて密教を深く学び、また、これを日本の空海に伝授しました。これが所謂三国三大法師の関係です。この碑文は楷書で、唐代の有名な書道家徐浩の筆です。中尼合文之那陀尼経憧碑は中国語とネパール語の古い文字が刻まれています。唐王朝と友好応対を頻繁に行ったことの記載です。不空三蔵は唐の玄宗皇帝の勅命を受けて、この碑文を唐語に翻訳したという記載もあります。
第三室から第七室までには漢、唐、宋、明、清など。各時代の有名な書道家、芸術化の名筆があり、観音菩薩像、孔子像、達磨大師像や山水風景の日、漢曹全碑はいずれも傑作です。石刻展示室はこの博物館の重要な場所です。この展示室には陜西省に散在した数多くの石刻の中の代表的な作品が転じされています。前漢から唐までの逸品は70点あり、陵墓石刻と宗教石刻の二種類に分けられます。老子、武士、ダチョウ、牛、獲物を狙う獅子、石人に引っ張られる獅子、重さ10トンの石犀、神話の西王母と東王公の石像、石棺など、多くの石像があります。特に、唐の太宗皇帝が乗用した軍馬をモデルとして彫刻した昭陵六駿は最も有名な芸術の珍品です。この六駿は唐代の大画家閻立本の絵を模写して、高さ2.5m、幅3mの石版に彫刻されています。六駿は太宗が唐王朝を樹立するため、隋の軍隊と戦い、全国を駆け巡っている時に愛用した軍馬です。したがって、それぞれに故事来歴があり、史実を反映しています。
小雁塔
小雁塔は薦福寺の境内にあります。この寺は唐玄宗皇帝の娘襄城公主の住宅と開化坊の半分を占めて、長安城のほぼ中央にその偉容を誇っていました。684年、則天武后が亡くなった夫、高宗皇帝の百日忌明けの行事を機に、その冥福を祈るために建立した寺です。 最初、薦福寺と名付けられ、唐中宗の文明元年に献福寺と改名され、則天武后の天授元年(690年)に旧名に復しました。この寺は唐の末期、戦乱で破壊されましたが、その後、宋、元、明、清の各時代に修理されました。範陽の出身である唐の名僧義浄は671年に洛陽を出発し、広州から海を渡ってインドに到り、30余りの国々を訪ねました。彼はインドに25年間滞在して多くの経典を研究し、その精髄を身に付け、695年、最も大切なサンスクリット経典のうち、400部を長安に持ち帰りました。義浄法師は薦福寺を経典翻訳の道場として706年から728年までの間に56部のサンスクリット経典を漢訳しました。そして、「大唐西域求法高僧伝」という名著を著わしました。この本は中国とインドの仏教文化交流を県境する上で貴重な労作です。唐の開成五年(840年)に日本の留学僧慈覚大師円仁がこの寺に逗留していました、円仁は長安に学び、多くの経典を日本に伝えたばかりでなく、帰国後、延暦寺の堂塔を整備して、日本の仏教に多大な功績を残しました。小雁塔は唐の景竜年間(707-709)に建造された煉瓦造りの塔です。もともとは15層でしたが、明の嘉靖三十四年(1555)に陜西省地方を襲った大地震の際に、上2層が崩壊し、現在は13層で、高さは43mあります。所謂楼閣式の大雁塔に対して、小雁塔は軒と軒の間隔が狭い密檐式の塔です。煉瓦の隙間には石灰と糯米が塗り込められています。塔身の幅は上に上るにつれて次第に狭くなっていて、緩やかな印象を与えます。塔の外形は古代ギリシア建築の柱にみられるようなすっきりとしたエンタシスの輪郭を呈しています。一階の南北に石門の上の横木には蔓草花紋と天人供養の図像が刻み付けられています。その浮彫の技法は精彩を極め、線は伸び伸びとしていて、唐代の優れた芸術遺産のひとつです。小雁塔に残っている重要な石碑の中に明代の王鶴の碑があります。これは彼が1551年9月28日に書いた有名な歴史の生地です。これには、「薦福寺は唐代に建立され、明代の成化二十三年(1487年)に起こった大地震のため、塔身の真中に下から上まで一尺ほどの裂け目が生じた」、しかし「紋の正徳年末、また大地震があって、この時、塔身が一晩のうちに自然に以前の状態に戻り、まるで神様がその裂け目をくっつけたようだ」という話です。当時の人たちはこれを「神合」と称し,神様の力でくっついたと信じました。小雁塔には大きな鐘があります。鐘は昔、時刻を告げるためのものでしたが、この鐘の音は毎朝遠くまで響いて、人々の目を覚ましていました。そして長安八景のひとつとなり、雁塔の晨鐘と呼ばれました。小雁塔は1965年に修理されました。この際、塔の内部に階段が設けられ、塔身を強化するため、二、五、七、九、十一階に鉄輪、鉄筋が嵌められて、塔頂には避雷針が立てられました。 今は最上階まで登って西安街を眺望できます。現在の薦福寺境内にはこの煉瓦造りの塔のほか、1192年に鋳造された重さ10トンの鉄鐘があります。塔の南の庭園にはアカシアの老木と石碑、北には白衣閣という建物があります。この中に塔についての資料や写真が展示されていて、小雁塔と薦福寺の建造史と経歴を研究するための重要な資料です。
大雁塔
歴代の王朝が都を定めた長安。その長安で古都の雰囲気を演出しているもののひとつに大雁塔があります。塔は現在の西安の東南郊外慈恩寺境内にあります。
慈恩寺は648年、唐の第三代皇帝高宗李治が亡くなった母、文徳皇后の慈恩を追慕して建立した寺で、高宗の皇太子時代に立てられました。当時の慈恩寺は僧房1897室、僧侶300人が集まっていました。しかし、唐代末期、戦乱のため焼き払われ、今の大きさは昔の十分の一に過ぎません。現在の境内にある当時の建物は大雁塔だけですが、塔の前方には明代と清代の建物が残っています。その講堂の中に金色の阿弥陀仏と昔の仏座が展示されています。講堂前の大雄殿には釈迦如来の三身仏と十八羅漢があります。これらの仏像は明代のもので、後年、鍍金したり、塗装して現在に至っています。塔の東南に明、清代の慈恩寺歴代住職の舎利塔が八基あります。庭園には鐘楼と鼓楼があり、その中にそれぞれ大きな鐘と太鼓が掛けられています。シルクロードを通って西域128ヶ国を歴訪し、インドでの遊学を終えて、多くの経典と仏像を長安に持ち帰った唐の高僧玄奘法師は慈恩寺をすばらしい寺として、この寺の境内に塔を建立して、仏像と経典を保存したいということを高宗に願い出ました。高宗は玄奘の願いを適え、玄奘の建議によってインドの塔婆を真似て、五層の塔を建てました。これは652年のことでした。この塔に使用された材料は煉瓦、石灰、土、餅米で、内部を土で築き、外面に煉瓦を積みました。塔が一日でも早く出来あがるように、玄奘は毎日、朝早くから夜遅くまで煉瓦などの材料を籠で背負って運搬したと伝えられます。 塔が竣功してから、玄奘の持ち返った仏像などがその中に安置されました。そして、玄奘は慈恩寺を翻訳経院とし、経典の翻訳を約11年間に亙って続けました。大雁塔は則天武后の長安年間(701-704)に大改造を行って十層になりましたが、その後の戦乱などで七層から上が崩壊してしまいました。現在の塔は煉瓦造りの七層で、高さ64m、中に螺旋階段があり、階段は碑と漸く擦れ違うことができるほどの幅ですが、最上階まで登ることができます。また、各層には正確に東西南北の四方に窓が開いています。塔の南入口の左右の龕には唐第二代皇帝太宗の「大塔三蔵聖教序」の石碑と唐第三代皇帝高宗の「大塔三蔵聖教序記」の石碑があります。碑文の内容は玄奘法師の苦労を称えたものです。唐の下部の東西南北側にそれぞれ石門の上に横木が一本ずつあります。南の石門の横木を潜ると、中央広間の回廊の南側の石碑の上に科挙の合格者の名前と出身地が刻まれています。他の石門の横木にはそれぞれ精巧な線刻の仏像と天王像があります。特に西側の石門の横木に陰刻した釈迦説法図と殿堂図は圧巻です。五門単層四注造りの仏殿が拓本取りで真っ黒になっていますが、陰刻された鴟尾や屋根などの状況は鮮明です。この仏殿図は日本の奈良・平安時代の木造建築の原形となっただけでなく、中国建築市場でも唐代の建築様式、絵画、彫刻芸術を伝える重要な文化財です。大雁塔はすでに1300年の歴史があり、その間、震度7以上の地震に二度見舞われていますが、昔日の雄姿のままに重厚な姿を見せています。
陜西省歴史博物館
唐代の建築様式を取り入れた中国一の博物館であり、収蔵品が37万点、そのうち6000点が常時展示されている。原始社会から明の時代までの長い歴史を代表する貴重な文化財がここに集められ、一堂にして中国の5000年の歴史を巡ることができる。特に唐代の壁画展示が人目を引く。300㎡の唐代の壁画から34枚を厳選し、公開している。いずれも中国最高のレベルに達しているこの壁画は宮廷生活や楽隊、儀杖隊、狩猟風景などが多彩に描かれ、中国古代絵画の最も重要な遺産である。
世界第八番目奇跡兵馬俑坑
始皇帝陵から東へ1.5Kmの地点に、世界八番目の不思議とも呼ばれる兵馬俑坑がある。1974年3月に旱魃に窮した地元農民が井戸を掘り始めた。2,3m掘ると変わった陶器の破片が見つかった。考古学者の鑑定によって始皇帝の地下近衛軍団が配置されていることが初めてわかった。この偶然の発見によって、地下に2000年も眠っていた、世を驚愕させる兵馬俑がようやく日の目を見た。坑は発掘順序に基づいて一合 坑、二号坑、三号坑と名づけられた。最大の一号坑は長さ230m、幅62m、深さ5m、総面積14260㎡、兵馬俑の数が約6000体、二号坑は6000㎡、俑の数は1000体余り、三号坑は500㎡、俑の数は58体に過ぎず、規模が一番小さいが、地下軍団の司令部に当たる。一号坑は今なお発掘を続けているが、中は土掘によって区切られ、上に丸木を掛け、その上にゴザを敷き、表は2mの土によって覆われている。前衛部隊と四周にたっている警備隊に守られ、主力軍は38列に分けられて、東に向かって整然と列を組んでいる。兵隊俑の平均身長は1.8m、胴体は空洞、下半身は詰まっていて、顔の表情はそれぞれ異なり、身分によって服装もまちまちであり、いずれも手に武器を握っている。一部の俑にはまだ色彩が残っている。馬の高さは1.5mで西域の大宛の馬に似て、足が速いと言われている。 兵馬俑はこの近くの粘土を材料にして、彫刻などの手法を施し、最後に窯に入れて焼いていた。殉死制度のあった時代に人間に代わって陶製の人形を殉死品とすることから、人類文明の進歩を伺うことができる。
西安秦の始皇帝陵
そのスケールは世界第三位、驪山の北麓にある。高さは47m、一見普通の小高い山に見えるが、実は盛り土の墓である。始皇帝は紀元前259年の生まれで、名は瀟政と言う。13歳で即位して、22歳で自ら政務を執った。当時の敵国を次々に滅ぼして、初めて中国を統一した。紀元前210年、巡事中に50歳で病死し、この陵に葬られた。陵の工事は70万の囚人を使い、36年を費やして、ようやく完成した。 盗掘に備え、地下の水脈を掘り抜いて、その下に墓室を作り、地面に銅版を敷き詰め、その上に棺が安置されている。墓室に収められている数多くの宝物を守るために自動発射のできる弓矢が仕掛けられている。更に自然再現のために。墓室の天井には宝石の星を鏤め、床に海と川を模に、水銀を流しているそうである。
兵馬俑銅車馬
始皇帝陵の西側20mのところから発見されたもので、当時実用の車の2分の1のサイズで作られ、併せて二台ある。一号車は先導車で、御者は腰に剣を帯び、側に弓矢などの兵器を備えている。二号車は温涼車といって、秦の始皇帝の専用車である。二台とも四頭立ての馬車で、豪華を極め、車体に美しい模様が描かれている。金銀製の埋めの装身具は1594点が残され、2000年前の金属加工の精密さにも驚かざるを得ない。
華清池
華清池は西安から東に30キロ離れた驪山の麓にあります。驪山は海抜1256m、風景秀麗なところで、三千年前の西周時代からの温泉の湯元があります。そのため、ここは歴代の帝王が享楽に耽った所でした。西周時代末期の周の幽王はここを驪宮として時々愛妃褒似を伴なって酒宴をしていました。秦の始皇帝がこの温泉に入ったと言う話も広く伝えられています。唐の玄宗皇帝が747年にこの温泉地に造営した本格的な宮殿式建物は「華清宮」と名付けられました。楊貴妃は傾国の名花として名高く、718年蜀州の官吏楊玄炎の娘として生まれ、名は楊玉環と言います。16歳の時、美人(官名)に選ばれて宮殿に入り、玄宗の子、寿王の妃となりました。唐の開元二十八年(740年)十月、玄宗皇帝が華清宮に行幸中、宦官の高力士の推薦によって召し出されました。その後、楊貴妃は女道士となり、太真と称し、太真宮に住みました。官名通りに美人で聡明、その上下歌舞に長じた玉環は玄宗の寵愛を一身に集めました。745年には皇后に次ぐ高位の貴妃となりました。それ以来、玄宗は毎年秋から翌年春まで楊貴妃と共に華清宮に住み、温泉に入り、歌舞を観賞し、歓楽の日々を送りました。また楊貴妃の姉三人は妹のおかげで宮中に入り、まもなく一族の楊国忠が宰相の要職に就き、楊氏は栄華を極めました。華清宮には玄宗と楊貴妃のために蓮花湯と海棠湯という専用の浴室も造られました。当時の蓮花湯は規模が極めて大きく、大理石で造営し、白い玉石で魚、竜、雁、蓮の花などの形を彫刻し、十八の浴室を飾りました。特に白い玉石で彫刻された蓮の花は温泉の湯の中で、まるで芙蓉の花が水面に咲いているようだっとと伝えられています。飛霜殿は玄宗と楊貴妃が泊まったところで、また、宴会と歌舞に明け暮れていたところでもありました。この殿の南に九竜池があり、昔、温泉の湯が流れ注いでいた池です。玄宗と楊貴妃は飛霜殿の前に立って、池から湯気の立っている風景を観賞しながら、語り合いました。この情景は唐代の風景画にも描かれています。貴妃池とは彼女の専用の浴槽で、蓮の花の形をしています。楊貴妃は入浴してから、飛霞閣に上がって、髪を乾かし、その後、すぐに桐蔭軒で踊りました。玄宗はその入口で惚れ惚れとして眺めていたと言います。楊貴妃は茘枝が代好きだったので、馬で蜀州から長安に運んだという話があります。600キロも離れている蜀集から三日間で茘枝を運べという命令もありました。唐代の有名な詩人白楽天は、玄宗と楊貴妃の華清宮におけるロマンスを素材にして長編の叙事詩「長恨歌」を作りました。「春寒くして浴を賜う華清宮、温泉の見ず滑らかにして凝脂を洗う」華清宮は現代中国の政治舞台にも輝かしい1ページを飾っています。1936年12月、蒋介石は南京を出発して西安に来ました。その目的は楊虎城の西北軍と張学良の東北軍による共産党「討伐」が一向に捗らないことに業を煮やし、この二人の将軍を督戦するためでした。蒋介石は華清宮の五間庁に泊まって、12月12日朝5時、突然の銃声で目を覚まし、着替えもできず、裸のままで窓を乗り越え、山腹に逃走しました。山はらの大きな石の隙間に隠れている時、8時頃、張学良の護衛兵が発見して捕らえ、西安市の西京招待所に幽閉しました。張学良と楊虎城はさっそく延安にいる毛沢東に電報を打ち、代表団の派遣を要請しました。毛沢東は周恩来を西安に派遣しました。周恩来は何度も蒋介石と交渉し、その結果第二次「国共合作」が実現しました。五間庁の窓には今も当時の弾痕が残っています。山腹には記念のため、石造の部屋が建てられ、「兵諌亭」と名付けられました。現在の華清宮には温泉の湯元が四ヶ所あり、一時間の湧出量は125トンです。温泉は摂氏43度、その名かに石灰、炭酸マンガン、硫酸ナトリウムなどの九種類の有機物質が含まれていて、関節炎や皮膚病に効能があります。最近発見された唐の太宗皇帝の星辰湯、玄宗皇帝の蓮華湯、楊貴妃の海棠湯などの著名人の浴槽の遺跡の上に古典的な建物が作られました。尚、飛霜殿の前に立って眺望すれば美しい風景の庭園に広い池があり、朱塗の亭や楼閣、東屋などの唐代の風格を保っている建物が点在し、枝垂れ柳や百日紅の木が茂り、古代にロマンスが偲ばれます。
興慶宮公園
興慶宮は今の城外、東南郊外にあり、唐代の興慶宮の一部です。昔の興慶宮は玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営されました。その後、皇帝や貴族たちがよくここで歓楽を尽くしました。特に玄宗皇帝が728年に興慶宮で正式の政務を執りはじめてから、ここは大明宮に代わる唐代の政治の中心地でした。また、玄宗皇帝は楊貴妃と共に、長い間ここで酒と歌舞に明け暮れ、生活を欲しいままにしていました。745年~756年までのことでした。唐代の興慶宮の面積は135ヘクタールでしたが、今の面積は50ヘクタールに過ぎません。しかし、昔の需要な建物がこの範囲にあるため、現在地は昔の興慶宮の中心です。現在の興慶宮には勤政務本楼の遺跡や沈香亭、花萼相輝楼、長慶軒、湖などがあります。勤政務本楼とは、玄宗皇帝が詔勅を公布したり、公式の宴会を行ったり、外国の賓客と会見したりするところです。花萼相輝楼とは、玄宗皇帝が毎年の旧暦8月15日に中秋節の際に自分の兄弟をそこに招いて、一緒に月見を楽しみ、深夜にはひとつの大きな枕とベッドで兄弟が一緒に寝たと伝えられる建物です。それは兄弟の間で互いに助け合う気持ちを高めるためでしたが、実は同床異夢で、血で血を洗う骨肉の争いが当時の常でした。沈香亭とは、楊貴妃が牡丹を観賞するために建てられたものです。唐代、沈香亭の回りには牡丹が沢山植えられ、毎年春になると綺麗な牡丹が鮮やかに競い合って咲いていたそうです。史書によると、牡丹の花は百種類以上あって、一日に何回も色が変わったといいます。その季節になると、玄宗皇帝と楊貴妃は沈香亭で酒を飲み、歌を歌い、花盛りの牡丹を観賞しました。輿に乗って、李白を呼び、詩を作らせたこともありました。 今日、よく詠われている「清平調」という詩はその時に作られた物です。「名花傾国両つながら相喜ぶ、常に君王の笑いを帯びて見るを得たり、春風無限の恨みを解釈し、沈香亭の北欄干に倚る。」名花である牡丹と傾国の美女楊貴妃は共に玄宗皇帝の喜ぶもの、皇帝はいつも笑いを含んで見ていました。李白はこの詩で牡丹と楊貴妃を交互に書き、花即ち人、人即ち花、牡丹の美しさと楊貴妃の艶やかさを重ねて詠んでいました。この建物の材料には沈香木が多く用いられていたため、沈香亭と名付けられました。湖は面積38ヘクタールで、竜池と呼ばれています。湖水は樹木の陰を映して非常に美しい。玄宗は楊貴妃と船に乗り、風景を観賞し、楽しい生活を送ったことは広く伝えられています。長慶軒とは、かつて玄宗皇帝の音楽室でしたが、今は休憩室として使われています。興慶宮は今日、西安最大の講演となり風景秀麗で、昔日の宮殿の雰囲気を演出しています。
西安阿部仲麻呂
阿倍仲麻呂の記念碑は興慶宮公園にあります。これは、西安と日本の奈良市の友好都市関係締結五周年を記念して、1979年7月1日に立てられたものです。大理石作りの美しい記念碑の高さは6.1m、碑の正面には金文字で「阿倍仲麻呂記念碑」と刻まれ、側面には阿倍仲麻呂が故郷の奈良を偲んで詠んだ望郷詩と当の詩人李白が仲麻呂を哭す詩がそれぞれ掘られています。
阿倍仲麻呂は698年、奈良に生まれ、717年、19才の時、留学生として遣唐使に従って長安に来ました。彼は国子監(大学に相当)で一所懸命勉強し、当時最難関とされていた進士の試験に合格し、唐王朝の官吏となり、752年に今の国立図書館館長に当る職にも就きました。こうして、彼は長安で35年間生活しましたが、祖国日本および親類を偲ばないことはなくて、小倉百人一首で有名な短歌を作りました。「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」仲麻呂は753年6月、玄宗皇帝の指示で唐王朝の身分のまま遣唐使の藤原清河、副使吉備真備と共に長安を離れ、帰国の途につきました同年10月15日、仲麻呂は楊州で鑑真和尚を表敬訪問し、鑑真を日本に誘いました。11月15日、仲麻呂は藤原清河と第一船に、鑑真は第二船に、吉備真備は第三船に、他の碑とは第四船に乗船して蘇州を出発しました。渡航は困難を極め、12月6日沖縄を横切る途中で暴風雨に巻き込まれ、大部分の人が遭難してしまいました。かろうじて生き残ったのは仲麻呂など十数人で、仲麻呂は暴風に任せ、ベトナムに漂流し、中南島に上陸しました。そして、あらゆる困苦辛酸を嘗めながら二年後の天宝十四年六月(755年)に再び長安に戻りました。この年、安禄山の乱が起こり、その後、彼は玄宗皇帝に従って蜀州へ行き、757年12月、再び玄宗と共に長安に戻りました。その後も唐王朝の高級官僚として長安で活躍し、770年、73才で亡くなりました。
永泰公主墓
永泰公主は唐中宗の7番目の娘で、高宗と則天武后の孫娘です。彼女は則天武后の実家の人と結婚しましたが、701年に17歳の若さで死に、洛陽に埋葬されました。現在のところに埋葬されたのは中宗が即位してからです。彼女は南山で死んでしまったと言われていますが、則天武后を怒らせ、死を賜ったとも言われ、中宗によって永泰公主という名を追贈されて、乾陵に陪葬されました。この墓は乾陵の東南のに位置し、1960年8月から1962年4月まで発掘されました。これは解放後発掘された最も大きな墓です。墓は全部土を盛り上げて造られ、墓道はスロープ状で、高さ2m、幅3.9m、玄室までの長さが87,5mです。入口に入って、両側の壁に、東側は青龍、西側に白虎の壁画が描かれています。そして、将軍が鎧をつけ、宝剣を身につけた兵士を率いている画もあります。これらの兵士は儀仗隊です。もう少し奥に進むと大きな墓誌銘が見えます。この墓誌銘に「大唐故永隊公主」と篆書で刻まれています。下の石台の上には830文字が楷書で刻まれており、側面にはつる草模様や十二支の動物などが見事に描かれています。葉か道の左右対称の位置にはそれぞれ四個、あわせて八個の小さな龕が造られています。また、唐三彩の家屋、井戸、燭台、壷などのほかに婦人俑、騎馬俑や石、馬、豚、羊などの陶俑が置かれています。さらに進むと、発掘したときに発見した盗掘の穴があります。その時、ここで人の死体と鉄の斧が発見されました。この墓は明らかに盗掘されていましたが、それでもすばらしい唐三彩、陶俑など1350点も出土しました。天庭の部分が終ると、ドーム状の墓室になります。墓室は前墓室、後墓室に分かれています。前墓室は応接間を象徴します。両側の壁は壁画だらけです。「仕女図」は高松塚古墳の壁画に似て入て、日本でも良く知られています。しかし、その大きさや力強い筆致などに違いが認められます。壁に描かれているこの八人の宮女は唐代の典型とも見られるもので、頬が張り、眉が太く、いかにも意思が強そうな顔つきです。ある宮女は燭台を手にとり、あるものは扇、あるものは如意を持っています。人それぞれの容姿も違います。ひそひそとささやいていて、まるでそれにうなづいているような者もいます。彼女らはまるで主人の用事のために道を急いでいるようです。この「仕女図」について、専門家は侍女の服装から2つの事実を指摘しています。ひとつは侍女の履いている靴の大きさから唐代の婦人が纏足ではなく、今の女性とまったく同じということで、もうひとつは侍女の副葬がきわめて自由で、胸元がゆったりして、おおらかな感じがあるということです。唐の時代の女性は儒教の三綱五常の礼儀から受ける束縛が少なくなっていたことがわかります。これも唐王朝が李耳老子
の道教を提唱し、儒教を抑えたことと係わりがあるようです。唐の時代の女性は大変優遇されていて、女性万能の時代だったとも言えます。前墓室から後墓室へ、その間に石門がありましたが、盗掘者によって壊されてしまいました。この後は後墓室です。中には石椁があります。横4m、高さ2.5mあります。石椁には門があり、その上にドアノッカーがついて、その脇に二人の宮女像が彫られています。石椁の中には木棺があり、泥水に浸かって長い年月を経たため、もはや腐っていました。後墓室の天井には天象図があります。東の方は太陽を象徴する三足金鳥で、西の方は着きを象徴する玉兎、その間は天の川で、星が正しい位置に配置されています。これによって、当時の天文学の発達ぶりがよくわかります。唐代の陵墓の特徴はまったく彼らの住んでいた宮殿を真似て作られ、彼らの生前の生活を再現しようとした点にあります。墓道や玄室にはいろいろなものを飾り、色鮮やかな壁画は写実的に描かれて、柩は全て家屋の形をしています。それらの文物は当時の社会生活や宮廷建築や女性の服装、髪の形などを研究する貴重な資料となっています。永泰公主の墓の前には乾陵博物館があります。ここにはいくつかの陪塚から発掘された出土品が展示されています。第一室は乾陵と永泰公主墓の説明で、乾陵の復元鳥瞰図もあります。第二室は永泰公主墓と同じように、章懐太子、懿徳太子の部屋です。唐三彩の出土品がたくさんあります。そして唐代の優れた絵画、芸術を偲ばせる壁画も目を引きます。
乾陵
西安の西北約75キロメートルに位置する乾陵(チェンリン)。ここは唐第3代皇帝の高宗の陵墓で、標高1048メートルの梁山を利用して造られている。高宗は中国唯一の女帝、則天武后の夫。則天武后も死後、ここに合葬されている。参道には馬、武官、文官などの石像がズラリと並ぶ。この乾陵から、唐の時代に陵墓の前に多数の石刻を並べるようになったという。陵墓の南東には17の陪塚があるが、そのうち5つはすでに発掘が済んでおり、4300点あまりの出土品が乾陵博物館に展示されている。官女たちの壁画が有名。
茂陵
武帝劉徹(前156-前87)は漢の第五代皇帝である。紀元前141年、16歳で即位し、紀元前87年、70歳で亡くなった。彼が在位した54年間、政治、軍事、経済などいろいろな分野にわたって効果的な措置を実行し、北方の匈奴を追い払い、河西回廊を確保し、漢民族の国の繁栄をもたらした。そして紀元前138年には張騫を遣わしてシルクロードを開通させた。これは中国と中央アジア諸国との経済、文化の交流にとって画期的な出来事であった。茂陵は西安から約45キロの渭北高原の興平原に位置する。前漢の皇帝陵の中で最大で、造営の期間も長く、武帝の即位から53年もの長い期間をかけている。陵墓の高さ47m、陵の周囲は916mで、敷地の面積は5400平方mある。陵は錐形をしていて、厳やかな安定感が感じられる。歴史の記録によると、陵墓には外国から送られた玉の箱、玉の杖や武帝が生前に愛読していた本など、いろいろな宝物が入れられたとされている。陵墓には一体どのくらいの宝物があったのかは今となっては不明であるが、当時毎年国の租税の三分の一が墓造りや副葬品の買い入れに用いられていたという記録がある。茂陵のまわりには約20の陪塚が点在している。これらの陪塚は方形、円形、山形の三種類に分けられ、李夫人、衛青、霍去病、霍光などの皇族や功績のあった大臣の墓がある。茂陵を管理するために、当時陵令、門吏などの官職が設けてあって約5000人の雑役夫が樹木、草花などに水をやり、掃除をしていた。当時、漢代の埋葬制度に従って、茂陵の東南の辺りに町を造った。「漢書」の記録によると、おびただしい文官、武官、貴族が相次いでここに移住し始め、町の人口は28万人になった。現在でもこの付近には幾何学模様と青龍、白虎、朱雀、玄武のついた芸術的に高い価値がある「空洞煉瓦」などが出土されているが、昔の建物はひとつも発見されていない。
楊貴妃墓
傾国の名花楊貴妃の墓は西安から70キロほど離れた興平県の馬嵬坡にあります。彼女は718年に生まれ、756年に亡くなりました。745年に玄宗皇帝の貴妃となり、玄宗は楊貴妃を得てから、毎日酒と歌舞と貴妃の愛に溺れて政務から遠ざかりました。このため、国内情勢は次第に悪化し、政治は窮境に陥りました。755年、勢力を貯えてきた安禄山が叛旗を翻し、所謂「安史の乱」が起こりました。楊貴妃は玄宗皇帝に従って、戦火を避けました。途中、馬嵬坡で近衛兵と指揮官の不満が募り、騒乱が起きました。兵士たちは「窮地に陥ったのは楊一族のせいである」と楊国忠を殺し、さらに、玄宗皇帝に楊貴妃を殺すことを要求しました。玄宗皇帝は兵士たちの激昴の前に涙に暮れながら宦官、高力士に楊貴妃を絞殺せよと命じました。楊貴妃はこの時、寺に入って仏に祈りたいと玄宗に希望し、許可を得た楊貴妃は寺に入って、仏像に面して「一日早く亡くなったら一日早く生まれ変わるようにお願い申し上げる」と祈りました。その直後、楊貴妃は絞殺されました。時に38才。子供もないままに死んだ彼女の一生は「花の命は 短くて 苦しきことのみおおかりき」という詩の通りでした。玄宗は楊貴妃を簡単に土葬して四川に逃げ、危難を避けました。昔、楊貴妃の墓は土盛りでしたが、墓の土は毎年春に白粉に代わって、香を漂わせました。その白粉を顔に付けると美人になるという噂が広まって、大勢の若い女性がその白粉を欲しがって墓に参りました。このため、2,3年のうちに墓の盛り土がなくなってしまいました。現在の墓は半球状のレンガで覆われていて、墓前に「楊貴妃之墓」の碑があります。楊貴妃の非業の死は人々の心を打ち、以来、歴代の多くの詩人が墓を参拝し、多くの詩を献じました。それらの詩は30基の石碑に刻まれ墓の回廊の壁に収められています。現在、墓地の辺りには門楼が建ち、亭、堂が復元されています。
興教寺
興教寺は西安から20キロ離れた長安県の少な陵原にあり、近くに樊川を望み、神禾原を隔てて、遠く終南山を眺望する高台にあります。この寺は玄奘三蔵法師の遺骨を移葬し、供養するために、唐の第三代皇帝高宗によって総章二年(669年)に建立された有名な寺です。玄奘法師は唐の麟徳元年(664年)に入寂しました。当時、玄奘の遺骨は西安東郊外の東鹿原に埋葬されていましたが、あまりにも皇身やに近く、それを見るたびに心を痛めた高宗皇帝は総章二年になって樊川少陵原のこの地に改葬しました。その後、唐の粛宗皇帝李亨がこの寺に参拝した際に「興教」という題字を書いて掲げたので、以来、この寺は興教寺と呼ばれるようになりました。境内には玄奘三蔵の墓塔を中央に、その高弟の窮基の墓塔と円測(朝鮮人)の墓塔が左右に立っています。二人の高弟の塔は恩師に会釈するかのように少し前傾しています。この寺は三基の舎利塔があるため、名高く、また、樊川八大寺院としても知られます。当時は寺に立派な塔、殿、堂、楼などが建立されて美しい寺でした。しかし、100年ほど前に、戦乱のため、三基の塔を残して。ほかの堂、殿などはすべて焼失しました。その際、粛宗の書いた興教の扁額も焼失しましたが、その後、再度にわたる修理が行われました。この時、清の光緒帝時代の政治家である康有為が書いた「興教寺」の扁額が掲げられて。今日に至っています。この書は「有為」が朱書になっています。今日では木立に囲まれた静寂な境内に高さ23mの玄奘舎利塔をはじめ、大雄宝殿、法堂、蔵経楼などの伽藍があり、美しいたたずまいとなっています。大雄宝殿には本尊釈迦如来坐像があります。この金銅仏像は清代のもので、台座は三種の千体仏でできた珍しいものです。また、この中に多くの仏像が祀られています。法銅の須弥壇には、まず本尊の前に安置されている高さ30cmの小さな清代の白玉仏があります。釈迦三尊は上下二段があり、上段は明代のもので、この寺で最も古い像です。また。西方三聖像、観音菩薩像、清代の彩色仏画と中国仏教八大宗派の歴史の説明書もあります。蔵経楼は二層の建物で、その二階には宋代に印刷された一万巻近くの大蔵経などの仏典が納められています。
西安半坂遺跡博物館
半波遺跡博物館は西安市の市街地から東6キロ離れた産河の東側にあり、黄河流域における比較的に完全に整った典型的な母系制社会の村落遺跡である。六千年ぐらいの歴史を持っている。遺跡は面積が5万平米で、居住区と墓葬区に分かれている。1953年の春から、5回にわたって発掘を行った。発掘面積は1万平米ぐらいにも達している。発掘によって豊富な科学的な資料が得られた。1958年に遺跡の上に中国で初めての遺跡博物館が建てられた。1961年に国から全国重要文化財に指定された。花と樹木に覆われた半波博物館の庭の中央に池があり、池の中に築山がある。その上に一人の17か18歳ぐらいの少女の彫像があり、少女は麻布のスカートをはいて、腕に陶製腕輪をはめ、手に底尖汲水瓶を持って、しゃがんで水を汲もうとしているが、突然魚と清らかな泉が目に入り、汲むか止めるかと迷っている様子で、多分魚を驚かすことを心配しているのであろう。少女はこのあたりで生活していた半波の娘である。半波博物館には、展示室が三つと遺跡ホールが一つある。第一展示室には、中国原始社会の主な遺跡分布図、半波博物館の建設、半波人の生産活動、家畜の飼育、陶器の製造などが展示されている。第二展示室には、半波人の社会組織、村落中央にある大きな長方形家屋遺跡、道具、炊飯用品、芸術と文化、絵画芸術、符号の利用、簡単な計算などが展示されている。第三展示室には、補助的な目的で主に陝西省原始社会史が展示されている。遺跡ホールには、早期の円形の家屋遺跡、半地下式の方形家屋遺跡、子供棺桶、文化層断面、境界の堀、共同墓地などが展示されている。